8月31日大磯

いよいよ8月も最終日。薄曇りで少し暑さも和らいだように感じますが、夕方からは雨予報。この蒸し暑さにはいい御湿りとなるでしょうか。

浮世絵でGo To 東海道五十三次の旅、九日目は「」。

大磯 虎ケ雨

日本橋から始まった東海道の旅も雨空となりました。蓑笠姿、馬乗で合羽をはおった旅人たちが急ぎ足で大磯宿へ向かいます。右手には平塚のまん丸な高麗山の裾野がみえてます。松の向こうに見えるは相模灘。相模灘と言えば久保田酒造ですが、そろそろ夏越し酒(ひやあがり)や秋上がりの入荷する楽しみな季節でもあります。

…話がそれましたが、副題につけられた“虎ヶ雨”について。「仮名手本忠臣蔵」「鍵屋の辻決闘」と並んで日本三大仇討ちの一つ「曽我物語」で曾我十郎祐成が仇討ちで命を落としたのが1193年の旧暦5月28日のことで、その十郎が愛した大磯宿の遊女 虎御前が流した涙が雨となったという話からその日に降る雨は“虎ヶ雨”と呼ばれました。鎌倉時代の話が江戸時代の版画に反映されたのですね。ちなみに初夢で縁起が良いとされる「一富士 二鷹 三茄子」は、富士=曾我兄弟の仇討ち(富士山の裾野)、鷹=忠臣蔵(赤穂浅野家の紋所が鷹の羽)、茄子=伊賀越の仇討(伊賀が茄子の名産地)という説があります。

つぎは小田原宿へまいります。

8月29日平塚

8月も残すところあと2営業日となりました。1年のうち、もう三分の二が過ぎてしまったのかと思う反面、あとまだ三分の一残っているとも考えます。先がみえない世の中ですが、分からないことだらけなのも世の中なのかも知れません。

さて本日も浮世絵でGo To 東海道五十三次の旅、八日目は「平塚」。

平塚 縄手道

縄手道は田んぼのあぜ道のことです。ラクダのコブのような山は高麗山(こまやま)、右手に連なるのは大山。そして山の間には雪景色の富士山が顔をみせています。早飛脚が走っていくその脇を、空っぽの籠をかついだ二人組の駕籠舁(かごかき)がのんびりと戻り道。花水橋の先には将軍家の菩提寺である上野・寛永寺の末寺である高麗寺があったそうですが明治の神仏分離で廃され、現在は高来神社(たかくじんじゃ)となっています。

平塚といえば戦後復興から始まった「湘南ひらつか七夕まつり」が有名ですね。今年は全国的にお祭りも花火も中止で、なにか季節感が欠けているような気がします。七夕は、中国の陰陽五行説を起源とする節句のひとつで、江戸時代に幕府が「五節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)」として公的な行事としました。ところが明治時代に入り、旧暦から改暦した際に五節句も廃され、七草粥、雛祭、鯉のぼりや菖蒲湯、七夕、菊酒など節句の慣習や風習は衰退していったのでした。いつの時代もお上のやることはまったく……

つぎは大磯宿へまいります。

8月28日弥次喜多

金曜の会見がまさか首相の辞意表明とは。さてこの事態を政治まんが家の佐藤正明さんはどんな風に書かれるのかと気になりました。たまたま東海道道中膝栗毛ネタがアップされていたのでご紹介。【東京新聞政治まんが】ヤジ来た!Go To トラベル(漫画:佐藤正明 2020年7月21日掲載)

東京23区は時短営業も延長となるようで、酷暑に加えて惨い残暑ですが、明日も粛々と営業しております。皆様のお越しをお待ちしております。

ご予約 TEL 03・6380・6663

8月27日藤沢

今週から来週にかけてまた暑さがぶり返すようです。体調の変化にはどうぞお気をつけて。今週も土曜は営業いたしますのでご予約お待ちしております。

本日も浮世絵でGo To 東海道五十三次の旅、七日目は「藤沢」。

藤澤 遊行寺

藤澤宿は大山詣や江ノ島詣などの巡礼者が行き交う門前町でした。遠景に時宗の総本山・清浄光寺(通称 遊行寺)の伽藍、そして手前に描かれた江ノ島弁財天の大鳥居までは約6㎞ほどの距離があり、なんともダイナミックな構図です。橋の上には、木太刀を奉納する大山講中の人々や鳥居のそばには杖を持ち連なって歩く座頭たちの姿がみえます。検校(盲官の最高位)がこの地で鍼療法を創案したことから江ノ島は盲人の参拝者も多かったのだとか。

遊行とは布教や修行のために諸国を巡り歩くことで、一遍上人(初代遊行上人)は平安時代に生まれた念仏踊りを鎌倉時代中期に広めました。なかなか過激な踊りだったそうです。ちなみに遊行寺は浄瑠璃や歌舞伎でも有名な小栗判官・照手姫ゆかりのお寺でもあります。鎌倉時代後期に四代遊行上人が開山しました。この版画が作られる500年も前のことです。

つぎは平塚宿へまいります。

8月26日戸塚

暑さも猛々しいですが、東京のGo To トラベルが解除されたらまずはどこに行こうかと思いを馳せる日々。本日も浮世絵でGo To 東海道五十三次の旅、六日目は「戸塚」。

戸塚 元町別道。

お江戸日本橋からは約十里半(41㎞)、夕暮れとなりました。柏尾川に掛かる吉田大橋のたもとの石の道標には「左り かまくら道」とあります。

旅籠「こめや」の軒先には講中札がたくさん掛かっています。“講”とは同じ信仰を持つ町内会や同業者などの団体さんのことで、皆で費用を積み立てて参拝ツアーに行くことが流行っていました。看板の奥にみえるのが大山で「大山講中」は大山詣りを目的とした人たちです。戸塚からは鎌倉方面への分かれ道ですので、鶴岡八幡宮や江ノ島を目指す人達や、お伊勢詣りの「太々講」など、東海道は巡礼の道でもありました。

余談ですが、日本橋のべったら市(10月)は商売繁盛祈願の行事 の“えびす講”です。マルチ商法(いわゆるネズミ講)も“講”の一種ですね。

つぎは藤沢宿へまいります。

8月25日保土ヶ谷

暑さは喉元を過ぎたような、8月もあと一週間足らずとなりました。31日までの営業時間の短縮要請もこのまま無事に解除されることを祈りつつ。巷は若者の姿ばかりが目に入りますが、皆様どうぞお気をつけて活動下さい。

さて浮世絵でGo To 東海道五十三次の旅、五日目は「保土ヶ谷」。

保土ケ谷 新町橋。

帷子(かたびら)川にかかった橋を駕籠が渡っています。駕籠の先をゆくのは虚無僧、そして橋を渡ると二八蕎麦の看板が見えてきます。

二八蕎麦といえば、うどん粉 2:そば粉 8の割合だとか、1杯16文で売っていたから「2×8=16」から「にはち」という説もありますが、思い出すのは落語の「時そば」ですね。ちなみに上方落語ではオチも一緒の「刻うどん」という噺があるそうですが、どちらとも原話は1726年に京都で刊行された笑話本「軽口初笑」から。釣り銭詐欺はこんな時代から考えられてたんですね。

次は戸塚宿へまいります。

8月23日処暑

暦の上では処暑となりました。暑さの峠を越える時期です。本当に今日は過ごしやすい一日でした。暦便覧には「處暑 : 陽気とどまりて、初めて退きやまむとすれば也」と書かれています。いよいよ晩夏、とはいえ、暑さ寒さも彼岸までと申します。まだまだ残暑は続きますので、どうぞお気を付けてお過ごしください。

8月22日神奈川

本日土曜は時短ですが17時より営業しております。連日、猛暑が続いておりますが、暑さは生ビールの美味しさもアップすると言うことで、水分補給しながらどうぞお気をつけてお過ごしください。

さて浮世絵でGo To 東海道五十三次の旅は四日目「神奈川」。

神奈川 台之景。

現在も当時の地名が残る台町。その名の通り高台から見下ろす眺望は景勝地としても有名でした。茶屋が軒を連ねていて、巡礼の親子連れや客引き女が旅人を引っ張ってる姿がみえます。1802年に十返舎一九が書いた「東海道中膝栗毛」、いわゆる弥次喜多道中でもこの宿場の客引き合戦や抜け参りの話がでてきますので、その約30年のち、広重はそこから着想を得て版画を制作したのかも知れません。

さてペリーが率いる黒船が浦賀にあらわれたのは1853年、その5年後に日米修好通商条約で結ばれ、貿易を前提として、箱館、神奈川、新潟、兵庫、長崎の五港が開港されます。しかし幕府は神奈川湊ではなく、対岸の横浜村に港や居留地をつくり開港地とします。理由は東海道に直結する神奈川宿や神奈川湊で外国人との衝突を避けるため。山下町や山手の外国人居留地が出来たおかげで元町が発展し、港の見える丘公園や山下公園も存在すると言えるでしょう。

次は保土ヶ谷宿へまいります。

8月21日川崎

浮世絵でGo To 東海道五十三次の旅へ。三日目は「川崎」。

川崎 六郷渡舟。六郷川(多摩川)の渡し舟の上、煙管で一服する商人さん。右奥に富士山の姿がみえています。

浮世絵に橋はみえませんが、多摩川の最初の架橋・六郷大橋は千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋と呼ばれました。1600年に徳川家康が架けさせたのが最初でその後、度重なる洪水に5回も架け直されてきましたが、1688年に起こった洪水を最後に1874年(明治7)に再建されるまでは、この六郷の渡しが橋の代わりをしていたそうです。版画がつくられたのは1833年頃なのでなるほど橋がないわけです。

現在の地図で六郷土手駅のあたりをみてみると多摩川の蛇行っぷりの凄さに驚きます。昨年の洪水のことをを思い出しても、400年以上経ったいまも暴れ川であることにかわりありません。

次は神奈川宿へまいります。

8月20日品川

浮世絵でGo To 東海道五十三次の旅へ。二日目は「品川」。

品川 日之出。朝焼けの品川湊に大名行列の殿(しんがり)の姿が見えます。茶屋には客引き女の姿も。

東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれました。岡場所(幕府公認の遊郭である吉原以外の非公認の遊郭)と呼ばれ、品川は吉原についで栄えていたのだとか。たしかに「品川心中」「居残り佐平次」など落語の郭噺でも有名ですね。この版画がつくられた10年ほどのちの1844年、岡場所統制で江戸四宿を除きすべてがおとりつぶしになりました。

次は川崎宿へまいります。